“平たい医者”を目指して──茨城で30年、地域医療を支える医師のキャリア|医療法人社団いばらき会 理事長 照沼 秀也先生

医療法人社団いばらき会 理事長 照沼 秀也先生 プロフィール
1986年浜松医科大学を卒業し、同年に浜松医科大学第2外科へ入局。
翌年(1987年)より国立東静病院(現静岡医療センター)外科に出張し、
その後大学に戻り第2外科の浜松医科大学大学院入学し、大腸癌におけるC-KI-ras遺伝子と悪性度の関係をレポート。
その後、父が理事長を務める医療法人綾和会に参加し老人の専門医療を考える会、介護力強化病院連絡協議会に参加、厚労省科学研究のケアプランに関する研究に参加。
1997年にいばらき診療所を開設,その後医療法人社団いばらき会理事長として在宅勤務に携わる。
茨城の地で30年以上にわたり在宅医療を支えてきた、医療法人社団いばらき会 理事長 照沼 秀也先生。
「立派な医者より、家族に寄り添う“平たい医者”でありたい」という思いを胸に、地域に根ざした医療を実践してきました。
本記事では、照沼先生が医師を志した原点から、茨城で在宅医療を切り拓いてきた30年の歩み、若手医師へのメッセージまで、これまでのキャリアをじっくりと伺いました。
医師を志した原点──立派な医者ではなく“平たい医者”に
ーーまず初めに、医師を志したきっかけを教えてください。
私が医師を目指した理由は、「お医者さんになれば、少しは家族の役に立てるのではないか」という、ささやかな思いからです。
実は、私の妹がダウン症でして、熱を出したり下痢をしたりしたときに、自分が少しでも力になれたらいいなと思っていました。
だから私は、立派な医者というより、“平たい医者”になりたいという思いで医学の道に進みました。
この思いは今も変わっていません。
妹がコロナになったときには、妹と一緒に寝て看病しました。
無事良くなり、「医者になって本当に良かった」と心から思いました。
患者さんに対しても同じように仲良くなり、“自分の家に医者の親戚がいるような存在”でありたいと考えています。
ーー在宅医療を始める前は外科医だったと伺いました。進路はどのように決められたのでしょうか。
医学部時代は、遺伝子治療にも興味をもっていました。
6年生の後半、各科の教授が講義をしてくださる機会があり、その中で「遺伝子治療」についての講義を受けました。
当時は昭和の時代、その先進性に強く感動し、「この分野を勉強したいな」と思っていました。
一方で私はスキー部に所属していて、当時の顧問だった第二外科の教授から「外科に来ないなら顧問を降りるぞ」と言われまして(笑)。
外科は全身を診られる科でもありますから、「幅広く学べるだろう」という気持ちもあり、最終的に外科を選びました。
立派な医師を意識したというより、そうしたご縁や流れの中で外科に進んだという感覚です。
外科医としての歩みと、在宅医療への転身
ーーその後、在宅医療に転身されることになった経緯について教えてください。
外科医としては10数年やっていました。
その後、大学院に入ったのですが、静岡県内に新しい老人病院が開設され、そこでアルバイトをしたことが老人医療に関わる最初のきっかけでした。
縁があって「老人の専門医療を考える会」という勉強会に参加し、しばらくして、その会の幹事もやらせていただくことになりました。
さらにそこから派生した「介護力強化病院連絡協議会」(現在の日本慢性期医療協会の原型)にも初期メンバーとして関わりました。
またその会の活動に「ケアプランの普及に関する研究」という厚生科学事業があり、6人のメンバーと一緒に参加しました。
ーー外科で培った技術は、現在の在宅医療でも生きていると感じますか?
役立っていることもあります。
たとえば、中心静脈栄養を入れる場面でも外科の経験はそのまま活かせますし、在宅を始めた頃に認知症の乳がん患者さんを診た際、在宅で乳癌切除術をさせていただき、外科医の経験が生きました。
というのもその時代、認知症が進んだ患者さんの手術は病院の受け入れが困難でした。
そのため最終的には、在宅で乳がん手術を行うことになりました。
手術中に、お姉さんが手を握ってくださったことで患者さんも落ち着いて手術を受けられました。
部分切除からリンパ節郭清までしたのですが、在宅の現場での乳癌切除術の診療報酬請求は、たぶんこの1件だけだったと思います。
在宅医療の開業に踏み出した経緯と茨城という選択
ーー先生が開業を決意されたきっかけ、そして開業場所として茨城を選ばれた背景について教えてください。
大学に在籍中、お世話になっていた教授が定年退官され、「一緒に区切りをつけたほうが良いのでは」と思ったことが大きなきっかけでした。
「これから何をしようか」と考えていたのですが、外科医として開業するのは大変だなと思っていたんです。
当時、老人病院でもアルバイトしていて、「これからの医療は、軽自動車に乗って、病院に来られない患者さんのところを回る医者が必要になるのでは」と思うようになり、在宅で開業することに決めました。
東京で始めると、うまくいかなかった時の影響も大きいと感じていましたが、茨城は地元でもあり、全国いろいろ見てきたなかでも東京に近くアクセスも良い地域です。
まずはこの土地でチャレンジしてみようと決意しました。約30年前のことです。
当時は在宅医療をしている先生がほとんどおらず、手探りの部分もありましたが、「まずはやってみて、もし思うようにいかなければまた別のチャレンジをしてみよう」と思っていました。
ーー在宅医療に携わり始めた当初、どのような点に難しさを感じられましたか。
それまでは外科医としての経験しかなかったため、診療にたずさわった疾患といえば「大腸がん」くらいでした。
しかし地域で医療を始めると風邪、高血圧、高コレステロールなど、一気に診るべき病気が増えます。
これまで全く経験がなく、お恥ずかしい話、最初のころは間違いも多かったと思います。
その時、とある先生から「総合診療を学んでみたら」と声をかけていただきました。
自治医科大学の地域医療学教室を紹介してくださり、カンファレンスや勉強会に参加するようになりました。
自治医科大学の研修医の先生方が、どう情報を集め、どう現場で活かし、看護師とどう連携しているのか——その実践的な学びは非常に貴重でした。
5年間ほど、毎週自治医科大学のカンファレンスに症例を持参し、相談するようにしていました。
やがて自治医科大学の先生がこちらの診療所にも来てくださるようになり、助けていただくことも増えました。
今では、いばらき診療所は自治医大の後期研修医療機関になり、研修医の先生が研修に来る施設にもなっています。
“家族の一員になる”──在宅医療の価値とは
ーー在宅医療における価値や意義について、先生のお考えをお聞かせいただけますか。
「お医者さんが家族の一員になれること」だと思っています。
ご家族のみなさんが「この先生はこういう人だ」と理解してくださり、温かい関係が築ける。これは外来や病院診療ではなかなか得られないものです。
「熱が出た」「めまいがする」という時に、先生が家に来て気さくに相談に乗る。
そんな存在でいられることは、私たち医師にとっても大きな喜びです。
ーー在宅医療ならではの印象深いエピソードはありますか?
おひとりで市営住宅に暮らしていたおばあちゃんを診ていたのですが、やがてがんを患われました。
「病院に行く?」と伺っても「行きたくない、ここでいい」とおっしゃる。
ある日「こわいんだよね(この地域では”苦しい”という意味で使われます)」とお電話があり、「では伺いますね」と向かうと、脈が弱くなっており、「もう近いかな」と感じました。
「来たよ」と声をかけると「来てくれたんだね」とおっしゃってくださり、しばらく一緒にいました。
「忙しいんだから帰っていいよ」と言われて一度は帰ったものの、気になって戻ると、そのまま息を引き取られていて、そこで死亡診断を行いました。
今では、一つの診療所だけでも年間90名ほどを看取らせていただいています。
本当に多くの患者さんの顔が思い浮かびますが、大学を辞めて在宅医療を始めたばかりの頃に担当した患者さんは、今でも特に強く心に残っています。

若手医師へのメッセージ
ーー今後、在宅医療に従事する若手医師へのメッセージをお願いします。
若い先生たちが今たくさん入ってきてくださっていて、本当にうれしく思っています。
コミュニケーションや情報共有、現場での連携など、難しい部分もあるかもしれません。
でも、患者さんやご家族の中に「自分も家族の一員として迎え入れられている」と感じられる立場にいられるというのは、医師として非常に幸せなことだと思います。
在宅医療には充実感がある一方で、大変なこともあります。
だからこそ、あまり根を詰めすぎず、楽しみながら続けてほしいですね。
失敗と成功を繰り返しながら、在宅医として成長していっていただけたら、と願っています。









