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人生の選択肢を広げるには。ひと繋ぎの医療システムを全国へ|一般社団法人プラスケア代表理事/川崎市立井田病院|西 智弘 先生

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人生の選択肢を広げるには。ひと繋ぎの医療システムを全国へ|一般社団法人プラスケア代表理事/川崎市立井田病院|西 智弘 先生

川崎市立井田病院にて早期の緩和ケアから在宅医療に至るまで一貫した診療に取り組む西智弘先生。
また、近年地域での取り組みとして注目されている社会的処方の拠点である、
一般社団法人プラスケアの代表理事も務めていらっしゃいます。

今回は西先生のこれまでのキャリアや緩和ケア、地域に対する想いをご紹介します。
また、医療や社会が目指すべき方向性についても伺いました。

一般社団法人プラスケア代表理事/川崎市立井田病院腫瘍内科部長
西 智弘 先生

2005年北海道大学卒。室蘭日鋼記念病院で家庭医療を中心に初期研修後、2007年から川崎市立井田病院で総合内科/緩和ケアを研修。その後2009年から栃木県立がんセンターにて腫瘍内科を研修。2012年から現職。現在は抗がん剤治療を中心に、緩和ケアチームや在宅診療にも関わる。また一方で、一般社団法人プラスケアを2017年に立ち上げ代表理事に就任。「暮らしの保健室」「社会的処方研究所」の運営を中心に、地域での活動に取り組む。
日本臨床腫瘍学会がん薬物療法専門医。著書に『だから、もう眠らせてほしい(晶文社)』『社会的処方(学芸出版社)』などがある。

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緩和ケアに対する概念が変わった患者との出会い

ーはじめに、現在のお仕事とこれまでのキャリアについて教えてください。

僕は現在、川崎市立井田病院に腫瘍内科医として勤めており、急性期、早期からの緩和ケア、在宅がひと繋ぎになった医療の形を提供しています。腫瘍内科に全ての部門があるので、週3日は抗がん剤治療、週1日往診、もう1日は早期からの緩和ケアというスケジュールを送っています。さらに2017年に一般社団法人プラスケアを立ち上げ、病院のみに止まらないケアの形として、社会的処方の主な活動拠点である暮らしの保健室を運営しています。

キャリアを転向するきっかけとなった出来事

もともとは多くの医師が志すように、専門医になる道を思い描いていました。しかし、大学の先輩から家庭医というジャンルを教わり、その仕事や考え方にとても衝撃を受けました。

専門医は特定の分野に精通し、臓器ごとに診療するのが一般的ですが、家庭医は全身、さらにいえば人生そのものを診る分野に当たります。これまでと現在の暮らし向き、家族も含めその人を取り巻く全てを考慮し、必要な治療を施していく。その考え方がとても魅力的で、家庭医になるためのキャリアを歩み始めました。

2005年に北海道大学を卒業した後は、家庭医になるために室蘭日鋼記念病院で初期研修医過程を過ごしました。しかし、自分がこれまで診てきた終末期のイメージを覆すきっかけがあり、緩和ケアを極めたいという熱量が高まります。

初期研修で内科を回っていた当時、地方の病院では緩和ケアという概念はさほど一般的ではありませんでした。そのため、がんを患うと苦しんで最期を迎えるのが病院の当たり前の風景だと、僕は受け入れていました。しかし、担当していた患者さんが、緩和ケア病棟に移って歩けるまで元気になり、家に帰っていったのです。

がん患者が回復する治療がここでは普通だということを知って、これまで苦しんで亡くなっていった人たちはなんだったんだろうと、ショックを受けました。初期研修医だった僕は、無知なままでは患者を不幸にすると一念発起し、緩和ケアの勉強を本格的に始めたのです。

ー緩和ケアによってがん患者の苦痛を減らす可能性を感じられたのですね。

持論ですが、人の苦しみには終わりがないんですよ。次から次へと新しい苦しみが生まれていくのが普通なんです。緩和ケアは身体の苦しみ、つまり痛みを取る治療を入口として始まったわけですが、それ以上に、先の見えない未来への不安や残される家族への後悔、仕事ができなくなり、同僚に迷惑かけたまま死んでいくことへの罪悪感など、さまざまな苦痛が山のように湧いてきます。僕は身体に止まらない多くの苦痛を目の前にして、医者としてどうにかできないのかと、使命感に駆られたのです。

その後、緩和ケアの知見を深めるために川崎市立井田病院で2年間の後期研修医過程を過ごしました。さらに、緩和ケアの終末期だけではなく、もっと前の時期を診てみたいと思い、栃木県立がんセンターで3年間働き、腫瘍内科の専門医資格を取得。2012年に川崎市に帰ってきて、再び川崎市立井田病院に勤め、現在は急性期を含む腫瘍内科と早期からの緩和ケア、在宅診療に取り組んでいます。

緩和ケアにおける医療の役割

撮影:幡野広志

ー川崎市立井田病院が取り組まれている「早期からの緩和ケア」の必要性について詳しく教えてください。

やはり終末期からの緩和ケアだけだと、搬送されてから数時間後に亡くなるケースがたくさんあるんですよ。たとえ、「死にたくない」と悲痛な声を聞いても残された時間は迫っているので、痛みを少しでも和らげる以上にできることはほとんどないのが現実です。一昔前は、この脆弱なシステムでしか対応できていなかったのですが、抗がん剤治療が始まってからの緩和ケアは、人生の終着点を穏やかに過ごすための場所へと認識が変わっていきました。

これは昔、僕の師匠が人生を飛行機に例えて教えてくれた言葉です。人は飛行機の離陸のように誕生して、ビューっと上昇し成人になり、平衡状態になって飛んでいく。だんだん年を取ったら下降してきて、終着点に着陸し人生を終えます。がんを発症すると、昔は墜落して悲惨な最期を迎えていたのが、緩和ケアによって何事もないようにスーッと降りて、ふわっと着地する楽な最期になります。つまり、「緩和ケアはソフトランディングを目指すところ」なのです。

医療は、空の旅をいかに快適に過ごしていただくために、「どのような旅を過ごしたいですか?毛布やイヤホンはいかがですか?」と手を尽くすわけです。しかし、終末期からの緩和ケアだと、これから着陸する寸前にこのような関わりはできないですよね。そのため、緩和ケアは早期から始めて患者の苦痛を取り除く必要がありますし、終末期では、スーッと穏やかに着陸できるよう、「ご苦労様でした」と、声をかけるような関わりがあるべき姿だと思います。

ー苦痛なく最期を迎えられるよう、早期から余裕をもった関わりが必要ということですね。

ひと繋ぎの医療だからこそ実現できること

ー西先生は早期からの緩和ケアに取り組むべく、川崎市立井田病院に戻ってこられましたが、病院の特徴を教えていただけますか?

川崎市立井田病院の特徴は腫瘍内科と緩和ケアが統合されており、救急、抗がん剤治療、在宅、看取りまで全て受け入れます。初診から主治医がずっと変わらず緩和ケアを受けられる病院は全国でおそらくうちだけです。

僕は北海道出身ですが、この病院でしか体系的な治療を施せないからわざわざ川崎に住んでいます。都会なのに、主治医がずっと変わらないという田舎みたいな診療をしていますが、かなり高度な緩和ケアに取り組んでいます。

ーひと繋ぎの診療によって患者にどのようなメリットがありますか?

最大のメリットは、患者が医療に振り回されなくて済むことです。主治医が都度変わることで患者へものすごくストレスがかかりますし、希望の暮らしができないケースは多々あるんですよ。

例えば、患者が本当は「在宅で過ごしたい」と思っていても、「いや、こんな状態で家に帰るのは無理だよ」と医師から言われてしまえば帰れない。逆に、「先生もう入院したいです」と言ったとしても、「いや、君は最期まで家にいたいと言ったじゃないか」と希望を受け入れられなかったり、「今、受け入れられるベッドがないよ」と断られてしまったりするのです。

そのようなストレスが当病院の場合はなく、自由自在なのです。極端な例で言うと、帰りたいと言った翌日には帰れてしまうし、逆も然りです。

ーかなりスピーディな対応ができるのですね。

そうですね。家に帰ってみたら、やっぱりしんどかったというケースにも対応できますよ。「3〜4時間、家で過ごせたから満足しました」と言って、病院へ戻るなど。

病院と在宅で担当医が分かれていたら、このような柔軟な対応は難しいですよね。しかし、希望に添えない理由は医療側の問題であって、患者の人生にとっては知ったこっちゃないわけです。

帰りたいなら帰れる、入院したいなら入院できるというシステムが必要で、当病院はそれを実現できる場所なのです。ひと繋ぎの治療の大きなメリットは、自分の人生を医療に振り回されないということですね。

長期的な目線で患者の人生を考える責任がある

ー患者の希望を最後まで受け入れ続けられる医療体制を作っていく必要がありますね。

そのためには、医師が患者の最期まで付き合う覚悟が大切です。患者にとっては、その場を乗り切ったらおしまいじゃないですからね。医師が長期的な視点を身につけ、トータルで診療する訓練をしないと患者の希望を叶えることは決してできません。

先を見通せていれば、痛みが出てから処置を始めるのではなく、「今、この治療が必要だよね」「本人や家族にこの話をしておかないと困るよね」と、より責任をもって考えられるようになります。医師は「この患者さんと出会ったからには、最期まで付き合うぞ」と腹を括らなければならないのです。

病状だけでなく、社会的困窮が背景にある困難事例もたくさんあり、本当に大変です。しかし、患者が後から苦しむと分かっているなら、予防の時点から関わり、何事もなく最期まで過ごしていただき、スーッと亡くなる方が絶対によいはずです。

僕は、「先を見通せないなら先生と呼ばれる資格はない」という想いでいます。患者の人生に責任を持つのが医師の仕事だと思いますね。

人の抱える全ての苦しみをゼロにしたい

ー西先生のご覚悟がひしひしと伝わってきました。

僕は緩和ケアの領域を極めたいし、本当に極端なことを言うと、人の抱える全ての苦しみをゼロにしたいという夢があります。現実的な話ではないと分かっていますが、言葉にするだけならタダじゃないですか。

目標を高く設定しておけば、100%のうち90%ぐらいの苦しみは0にできるかもしれない。初めから無理だと決めつけていれば、そのラインをクリアすることはできないし、50%くらいのラインで満足する医者になってしまうのです。上限を決めず、可能性をギリギリまで追い求めていきたいと思っています。

ーそんな先生が今後取り組んでいきたいことはどんなことですか。

もう僕がやりたいことはシステムとして完成しているんですよ。当病院で実践しているひと繋ぎの診療と、街中で気軽に立ち寄れる暮らしの保健室によって身体と精神的なケアどちらにも早期から関われるようになりました。

今後の課題は、このシステムを皆さんにどのように使ってもらうかについてです。まだまだ終末期からの緩和ケアが横行しており、医療側が行き当たりばったりな治療を繰り返しているため、患者は自分が死に向かっているとは考えもしないのです。だから、飛行機に例えると乱高下を繰り返して、墜落してしまう。

そんな事態を回避するために、当病院や暮らしの保健室で整えたシステムを全部使ってもらえれば、100%に届かなくても今よりはもっとよくできるという想いがあります。いかに自分たちのシステムを知ってもらうか、そして患者が早期からこの網の中に入ってもらえるような社会を目指したいと考えています。

ーそのシステムを広めるにはどうすればよいのでしょうか?

時間はかかるでしょうが、住民一人ひとりがその街での人生を想像できるようになることだと思います。例えば、親戚や友人が「井田病院に早くから通院したおかげで元気になったよ」とか、「最近亡くなったけど、自宅で家族と最期を過ごせたそうだよ」、「暮らしの保健室に相談に行ってから趣味仲間ができて楽しそうだよ」など。

知り合いづてにお互いの生活を知る文化が浸透すれば、この街での生き方、死に方のスタンダードがわかるようになると思うのです。そのためには、僕たち医療側が街に出て行って、一つひとつ実績を積み重ねていくことが大切です。

「困ったらあそこに行けばいいんだ」と思えるような接点を地道に作ることで、住民の不安や苦痛を和らげることに繋がります。この文化は広報で浸透できるような一筋縄なものではないので、1年で劇的に変わることはないでしょう。しかし、ゆくゆくは日本全体に広まって、「日本で生きて死ぬというのはこういうことなんだね」という、安心感を持てる社会になることが僕の夢ですね。

ー人やシステムなど街の資源がつながりあえば、深刻な状況を回避でき、豊かな人生を想像できるということですね。

患者が自分の生き方死に方をもっと自由に選べるように

撮影:幡野広志

僕は、医療や社会制度が貧困なせいで、「あなたの生き方はこれしかないんですよ」と強制されるような現状をもどかしく感じています。僕が歳をとって終末期に近付いたとき、選択肢がない状態だったら本当に嫌ですね。「もっと自由に生きて死なせてくださいよ」ときっと思うはず。

一方で、自由な選択というのは茨の道でもあるのです。場合によっては、標準治療といわれているものを断って自由に選択した結果、怪しげなところに辿り着くケースもあります。また、安楽死制度が始まったとしたら、「苦しくてしょうがないから早く死なせてください」と訴える患者も増えるかもしれない。しかし、本当は家族と穏やかな最期を過ごせたかもしれないのに、機会を失ってしまう危険性を含んでいます。

僕らは人々が自由に選択し、さらに苦しくない生き方死に方ができるよう医療や社会へと1日でも早く変える使命があるのです。そのためには、今後の医療のあり方として、最期まで患者の選択肢を提示し続け、状況に応じて柔軟に対応できるシステムを広める必要があります。

ー医療や社会制度が常にアップデートし、たくさんの選択肢を提供できるよう余裕を持った対応を心がけなければなりませんね。

そうですね。医療は患者にとっての一部分にすぎないので、制度だけでなく街中でも「どのような生き方があなたに合っていますか?」と一緒に考え、それを手助けする文化が当たり前になってほしいと思います。

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この記事を書いた人

桑村 美里

理学療法士/ライター/広報。療養型病院、回復期リハビリテーション病院で理学療法士として約4年間勤めた後、ライターや広報に転身。住民が地域医療や福祉を身近に感じられるような情報発信を行う。

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