地域住民に寄り添い松阪市の在宅医療を開拓|医療法人医王寺会 理事長|良雪 雅 先生
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三重県松阪市にある、いおうじ応急クリニック。応急診療・在宅診療のほか、訪問看護ステーション・介護ステーション・リハステーション・居宅介護事業所を併設し、従業員約80名(2024年年8月現在)を抱える松阪市を支える医療機関です。
良雪先生は医師5年目で同クリニックを開業しました。また医師として活動する傍ら、猟師としてもシカやイノシシによる農作物の被害から市民を守っています。「困っている人を助ける生き方をしたい」という想いから始めた良雪先生。
良雪先生の取り組みや地域への想いについて伺いました。
医療法人医王寺会 理事長
良雪 雅 先生
2011年三重大学卒業。2015年よりいおうじ応急クリニックを開設。
築150年の古民家に1歳半の子供と妻、ニワトリ11羽とアヒル4羽で暮らしています。
猟師。シカやイノシシを山で捕まえて食料を確保する。趣味は天体観測。いつか超新星を発見して「ウリボウ」と名前をつけるのが夢。
国際医療に興味を持ち医師の道へ
私が医師を目指したのは高校1年生のときです。将来どのような道に進むかを考えている時期でした。
2001年に同時多発テロのニュースで衝撃を受け、なぜこのような事件が起きるのだろうかと自分なりに調べたのを覚えています。根本に、途上国の貧困や格差の問題があることに気づきました。
世の中が変わっていく時期に、世界中のどこであっても人の命を救うことは価値があるのではないかと思い、医師の道に進んでいきました。
―国際医療を目指したところから地域医療にすすんだきっかけは何だったのですか。
最初は途上国医療をやりたかったこともあり、三重大学の学生時代にアフリカに1ヶ月ほど滞在しました。しかし現地では、病院に医師がいることよりも、農村まで薬を届ける道路を1本引くことの方が大切という現実を目の当たりにしました。
一方日本では医師不足や地方での救急車のたらい回しなどの問題がありました。
「今の自分が1人の医師として価値を発揮できるのは、日本の地域医療に貢献することではないか」と思うようになったのです。
三重大学卒業後、東京に出て研修医をしつつ、さまざまな社会活動をしました。
松阪市の逼迫した救急医療を救うために開業
関東で3年間ほど医師として働いた後、当時の松阪市長からの「救急医療を何とかできないか」という相談に応じ、三重県に戻りました。 そして医師として5年目の2015年11月、松阪市に『いおうじ応急クリニック』を開業した経緯です。当初は休日・夜間の応急診療専門クリニックとして開業しました。
1年後から在宅医療も開始し、2024年8月現在は応急診療・在宅医療・外来を医師6名(常勤換算)で行っています。
訪問看護ステーション・介護ステーション・リハステーション・居宅介護事業所を併設しており、全て合わせたスタッフが80名ほどです。
火曜と金曜は夜間の時間帯を、木曜と日曜・祝日は日中に地域の病院の外来が全て閉まってしまうので応急外来をやっています。
在宅の患者は現在700人くらいで、1日3〜4組のチームで訪問診療に出ています。
―若くしての開業に不安はなかったですか。
開業時はとても不安でした。しかし今となっては若く開業して良かったと思っています。 早く開業して良かったメリットの1つは、素直に変化できる年齢であったということ。未熟だということは自分が1番わかっていたので、コメディカルにも看護師にも地域住民にも、素直に「教えてください」と言えました。
30歳からの吸収力の高い年齢で経営者としてリスクを背負う中で、失敗に敏感になりそれを糧にして成長できたのも、大きなアドバンテージでした。
組織はトップの属性に近い集団になりやすいです。当院の従業員の平均年齢は35歳。若く勢いのある人材が集まったのも、自分自身が30歳台であるということが影響していると思います。
病院との連携についても、最初は若いということであまり期待はされていなかったのかもしれません。しかし実績を出すことで信頼されるようになりました。
「しっかりとトリアージして重症患者だけを送ってくれる」「紹介状の質が高い」など、いおうじ応急クリニックからの紹介なら取らなければならない、と思ってもらえるように日々尽力しました。
仲間に恵まれた点もあります。私が東京にいるときにできた仲間の1人が現在のクリニックの事務長をやってくれています。その彼の友人も入職してくれて、人材の採用などを頑張ってくれました。ありがたいことに「人」に助けられていますね。
プロに頼れることで「人任せ」の意識を変える
―先生が在宅医療で大切にしていることは何ですか。
「自宅で最後を迎えることが大切」というのは多くの在宅医療に従事する先生が言うでしょう。もちろんそれもあるのですが『ひとりひとりが自分の家族を支えていく』ということに価値があると私は思います。
とくに松阪市は私が開業した当時、在宅医療が非常に遅れた地域でした。
家庭でも施設でも何かあればすぐに救急搬送していたのです。
「何かあったら救急搬送すればいい」というような言葉が多くの場所で、市民のみならず地域の医療者からも聞かれました。自分や家族の命と健康を人任せにして、責任を押し付ける響きがそこにはありました。
世の中のあらゆるサービスが「お金を払って外注する」ということを当たり前として、人々が自分の生活を作るということを忘れてきているように思います。それが医療にも与えた影響の一つだと思います。
それに対して「搬送もしょうがない状況もあるけれど、まず自分に何ができるか考えようよ」という文化を作り、地域のひとりひとりの意識が少しずつ変わっていくことが大切だと思います。
いざというときに私たちプロに頼れることが保証された状況で、大切な人のために自分に何ができるかを考える人が増えていけば、地域を変えていく力になるでしょう。
そのためにも応急診療や在宅診療は非常に重要な役割を担います。患者さんが救急搬送を依頼する選択だけでなく、応急外来を受診する、在宅診療医に相談するという選択肢があるということを地域に根付かせるように活動しています。
仕事で大事にしているのは怒りの感情のコントロールです。
私は若くして開業したので、知識や技術は開業してからも死にものぐるいで身につけていきました。現在となっては一次救急や在宅医療の分野では、スキルでいえば地域のトップという自負はあります。
しかし、このようなことは頑張ればある程度できるものです。
どうしても日々の業務をしていると、さまざまな怒りの感情を抱くことがありますが、それが自分自身のためのものなのか、患者や地域のためのものなのかは常に注意を払います。
私憤であれば自分の価値を損ないますが、公のための怒りならば、表出の仕方は考えますが、感情を抑えることはしません。
そのためには自分の心を注意深く点検する必要があります。都合のいい表面的な考えではなく、自分自身に嘘をつかず、真実にしがみついて、自分の間違いであれば謝罪し、誠実に対応することが1番大切で、1番難しいことなのです。
1人の事業から地域みんなの事業へ
私のモチベーションは『人を助けたい』という気持ちです。言葉にすると軽く聞こえてしまうのですが、突き詰めて考えると「人を」と言いつつ自分を救いたい。心の奥底にある、なかなか外からは見えないような傷を癒やしたいと思っていて、それには人を助けることこそ意味があると思っています。
こういった幼少期からの魂に刻み付けられた傷は、誰にでもあるものですが、多くの人は自覚していません。私自身もこの存在と自分の動機に気づいたのは、ここ数年のことになります。
私の場合は誰かを助けることでその傷を癒そうとしてきて、その積み重ねで今に至っています。
私は地域で猟師としても活動していますが、それも患者さんがイノシシに農作物を荒らされて困ったというところから始めたことです。
―今後のクリニックとしてどのような取り組みなどをお考えですか。
私自身は具体的な形にこだわりはありません。しかし、一緒に働いているスタッフたちが、いろいろ考えて新しいことを企画してくれています。
カフェなどを併設した高齢者施設を作る計画も進んでおり、日本財団の助成も受けられることになりました。
少し前までは自分の事業としてクリニックを立ち上げて拡大してきました。それが現在社員みんな、地域みんなの事業になってきたのです。
みんなやりたいことがやれれば全社的にモチベーションも上がる。私はそれを支えられればいいかなと思っています。
私自身が「今何をやりたいか」と聞かれたら『人を救う、ということをしてみたい』と答えます。